昭和50年5月31日  朝の御理解

御理解第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」


 稽古をさせてもらうと、稽古という事は何の道でもないでしょうけれども、仕事が仕事を教えるという事があります。一つの仕事を一生懸命やっておりますと、仕事が仕事を教えてくれる。まあ師匠に習う。習った事を一生懸命練習しておりますと、そこから、いわゆる編み出されてくるものとでも申しましょうか、そこから習った事の、口や言葉では習えないところ、いわゆる微妙なですね、そこに一つの悟りがある。信心の稽古、これは何の稽古でも同じだけれども、その稽古という、本気で稽古させてもろうたら、新しく開けていく稽古の分野というものがね、悟られていく。それが私は楽しいのである。有難いと思うんです。だから本気で信心の稽古を、ただ参ってくるだけではいかん。学校に雑農かろうちからいくだけじゃいかん。やっぱり勉強せにゃ、しかも予習、復習が必要であるように、信心もそこから習うた事ではない。いや、教えようとしても教えられない、習おうとしても習うただけでは分からないところがです、いわゆる仕事が仕事を教えるという微妙なおかげの世界、分からせてもらう世界があるのです。ここへは信心の稽古に通うてくるのです。
 「夜夜中、どういう事がないとも限らん。おかげはわがうちで受けよ。」というのは、日頃信心の稽古させて頂いておる、その日頃稽古させて頂いておるその稽古を如実に現していく事なんです。いつどういう突発的な事が起こってもです、日頃稽古させて頂いておる、教えて頂いておる、それをいうならぶっつけ本番でおかげを受けていくという事なんです。日頃習うておるところを、いわば試してみるのです。そこになるほど、なるほどこういう心の状態になればこういうおかげが受けられるという体験が生まれてくるのです。
 「子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはいかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。」という事は、稽古に通うてくるというか、お参りをしてくるという事でも、止む得ない事情があって出て来れない時にはという意味だと。子供がある者や病人があったりする者やら、それを捨てて来るわけにはいかん。また、日傭取りやら仕事をやめてまで、勤めをやめてからまでという風になんですけども、ここは止む得ない事情があってお参りができない者はという事です。だから次に「まめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけ」という。まめな時という事はもちろん元気な時という意味ですけれども、いうならば平穏無事、とりわけ特別この事ばお願いせんならんから参りよるとというような、特別お願いしなければならないといったような事ではない、おかげを頂いておる時にここへ参って信心の稽古をしておけというわけですけれども、そこでその、信心の稽古という事がいつもここで言われますように、おかげを頂くという事よりも、信心を頂くという事を言われます。おかげを受けるという事より信心を受けて帰らなければいけないという。信心を頂いて帰れば、おかげは信心に付き物なんだから。それを反対になるから、いつまでたっても信心が上達しない。いうならば信心が、いわゆる仕事が仕事を教えるというような微妙な信心の、いうならば世界に入っていく事ができない。信心の稽古をする、いわばおかげを頂く稽古ということはです、信心を頂く稽古です。信心を頂くという事になるとね、いわゆる仕事が仕事を教えるというような、その、(冥境?)とでも言おうかね、いうならば御神徳の世界といったようなものが開けてくる。霊徳の世界というようなものが開けてくる。今までは味おうたことのない、それこそ習うて分かるところではない。教えようとして教えられるところではない世界が開けてくるのです。
 昨日、四時の御祈念を仕えさせてもらおうという寸前に、福岡から毎日お参りしてくる方がある。軽い(通風?)が出ておられまして、言葉が少しもつれる。体も不自由である。それでも一人で電車、バスを利用して毎日参ってくるんです。いろんな家庭の問題をお願いしてありましたが、ちょっと子供さんと義理のある仲でございますので、その人達がもう別れると。自分達は出て行くと若い夫婦が言う。いつも自分も体がこんな風だし、まあ若い夫婦がやってくれれば自分達もらくだと思っておるところへそういうような話が出ましたから、出るならばもう出ても良いと、まあいうならば諦めましたというわけです。それでいよいよ私が、私共夫婦が健康のおかげを頂いて、仕事、お店をなさっておられますけれども、その御用に差支えがないようにとお繰り合わせを頂きたいというのでございます。
 本当に私はちょうどここで昨日、何年ぶりかで筆を新しく替えさせていただいた。もういよいよいけなくなった。もう(やがて?)三年近く、二年半くらい使ったんです。もうこの筆の先が、ここのところがもうユラユラするごつなったから、こうして少なくなったから、新しく頂いたつと替えた。新しい筆ですから、なかなか使い慣らさなきゃやっぱいけません。それで私はあの紙切れに「いろはにほへと」を書いて稽古させて頂いた。ひらがなと漢字で書いておるところへちょうど参って来ましたから、その方にそれを私は差し上げましてね、○○さん、あの、普通の者、または信心の浅い者はちょうどこの「いろはにほへと」、これと同じ事ですよ。「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」、という。それを漢字で書いてみるとね、「色は匂へど 散りぬるを」と誰でも若い時があったんだと。けれども、その色も(?)も、もう散り失せてしまっていく。これは人間の世の常であるという事である。誰だっていつまでも。わたしゃ十八、あなたは二十といったような時ばっかりじゃないという事。その色も(?)も散り果てていくというのが世の常である。「有為の奥山 今日越えて」という事は「初」という事は、初めてという事でね、初という字を書いてある。奥山は奥山ですね。というのは、私共がどうでも越さなければならない峠が、それを私共はこの世からあの世へ移っていくという大きなこの峠を越させて頂かなきゃならない。その峠を越させて頂くのにです、それこそ「浅き夢見じ 酔ひもせず」である。様々な我情も言うてきた。我欲も言うてきた。まあ幸せになりたい、幸福になる、幸福になりたいという、そういう浅い夢を見てきた一生というものを振り返ってみる時にです、本当に儚いものであるという事である。「浅き夢見じ 酔ひもせず」ゑひもせずという事は合う事もなくという事である。いうならばそういう幸福に巡り合う事もなくという事である。一生我情我欲を言うて、幸せになるために一生懸命働きもした。勉強もした。一生懸命精進努力もさせて頂いた。けれどもそれは実に儚いものである。今、この、いうならば生から死への峠を越す時にです、何を持っていっておるか。何にもない。ただ、我情我欲を言うてきておったという事は、もうそれこそ一時の夢を見るようなものであったという事である。「ゑひもせず」、その自分たちの願いであったり理想であった、いわば人間の真実の幸福というものには「ゑひもせず」である。合いもせず。うんと一きばり、あの世へ皆が行き果てていってしまうんだという事である。
 やっぱり死ぬる時でも、うんとこう力を入れなければ死ねない、最期は。それはちょうど便所にいっとるようなもの。うんとやっぱり、そのもよおしがあって、うんと一きばりするところに、こう、出て、出るようにね、この世からあの世へ行くでも、やはり楽という事ではない。やはりウンと一きばりがいる。それを最期にあの世へ行くけれども、果たして行く時には何を持って行くか。何にも持って行けない。その事実をね、○○さん、思う時に、私共がどうでも、あの世にも持っていけれ、この世にも残しておけれるというものを頂いておかなければいけませんよ。今、あなたの家庭に起きておる家庭問題を通して、ただそれを、もう仕方がないから諦めるではなくて、その問題を通して信心を頂き、お徳を受けていく稽古をさせてもらわなね、というてまあ話した事です。そういう、あの世にも持っていけこの世にも残しておけれるというそれを頂くチャンスはいくらもあるのです。それを私共が、信心が無いとそれをおろそかにする。いや、信心が薄いとそれを頂くという事をせずしておいて、ただ、おかげを頂く、目先目先のおかげだけを言うというのです。それでは何も持っていくものはありません。私はもう何十年合楽にお参りしよったからたいてい持って行くもんがあろうと思いよるけど、ない、それでは。おかげだけは持っていけるもんじゃない。どんなに頂いておるおかげでも、おかげはやっぱり残しておかなければ、この世においていかなければならないものです。真実あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるものは信心の徳以外にはないという事を思わせて頂く時、信心の徳を受けるという事を焦点に稽古させて頂かなければならないという事なんです。信心の徳を受けるという事が、を焦点、それが目当てなんです。
 なら、ここへは信心の稽古へ来るところと言うておられるが、なら、何を目当てに稽古するかというと、そこのところを稽古する。目当てなのです。だから、ある難儀も問題もです、そういうまたと得られない、おかげの頂けれる、いうならお徳の頂けれるチャンスを今こそ頂いておる時だと思うてそれを大事にしなければいけないという事が分かる。ただ、その難儀から逃れさえすれば、金のない人が金のお繰り合わせを頂さえすれば、病気の人が、ただ病気が全快、治りさえすればでは、ただそれだけのものである。そういう金がないという難儀、体が弱いというその困った問題を通してです、信心の稽古をさせて頂いておかなきゃならんという事です。それこそが、一生が一場の夢であったと、ああ夢だ夢だという事であってはならんのです。そういう儚いものであってはならないのです。これさえ頂いていけば、あの世でも大丈夫と、もう私共が思えれるほどしのものを頂いていかなければならんのです。自分の心の中に育っていく、ああこれが御神徳というものだな、信心の徳だなと実感できれる、それをだんだん育てていかなければいけんのです。だから、例えば死ぬるにもです、不安がなくなる。これが持っていけれるんだ。しかもこれが後にも残していけれるんだと。それをです、私は習うたからというて分かるものじゃないと。本気で信心の稽古をさせてもらう。本気で御教えに取り組ませて頂いての信心生活でなからなければ、そこから与えようとして与えられない、教えようとして教えられない、いや、頂こう、受けようとして受けられないものがです、御神徳です。本気で信心の稽古をさせて頂く者の上にのみです、仕事が仕事を教えるという、いわゆる微妙な(冥境?)とでも申しますか、有難い心の状態というものが開けてくる。はあ、これを頂く為に、これを下さる事の為に、この問題もあったんだ、この難儀もあったんだと分かるから、その問題にも難儀にもお礼が言えれるという世界があるのです。それを頂かずしては、ただそこんところが抜けられたというだけです。金銭のお繰り合わせを頂いたというだけです。病気が治ったというだけ、それではせっかく信心させて頂いておる者が、惜しい事である。その様々な問題を通してです、信心の稽古を、信心の稽古をここへ参って信心の稽古をしておけという事は、ただ拝み方を覚えろ、ただ一生懸命参れ、拝めという事ではない。そんなら信心の稽古の焦点というものをどこに置くかという事をです、間違いなく焦点をそこに、目当てをおいてそれに向かって稽古をしていく。
 昨日の福岡の方にも申しましたように、様々な人間関係、なるほど子供達夫婦が、もうお父さんは体が不自由だから、私達がならここは引き受ける、まあしっかりやらせてもらうから、と言うてもらえれば、もうそれは大変有難い事なのですけれども、それでは信心の稽古はできん。ただ有難い、ただ勿体無いと言うておるだけではでけん。というて、まあ若者がそういうものを引き止めたところで仕方がないから、もう諦めましたでもいけない。その問題を通して、私は信心を頂かせてもらう。しかもです、あの世にも持っていけこの世にも残しておけるというほどしの信心の徳を受ける修行としてその事を受けるなら、体の上にもまたおかげを頂くことであろう。若者夫婦たちの上にもです、またおかげを現していけれる事だろうと思う。自他共に助かっていく道が開けてくるに違いはない。だから信心は諦めでもない。ただ、なら自分の都合の良いようなおかげを受けるという事だけでもない。様々な事があっても良かろうけれども、ギリギリの焦点は間違いのない、その事を通して「浅き夢見しゑひもせず」というようなことで終わらないように、あの世にも持っていけこの世にも残しておけれる、これならば持っていけれるという確信の持てれる、そこからです、本当の意味での死生観が生まれてくる。これを持っていけば、この信心の喜びを持っていけば、あの世でも楽ができる、おかげが頂けれるという確信を持てれるような信心を一つ頂きたいと思います。
 まめな時信心の稽古をしておけと。いかにも、ただ自分の都合のよか時だけ参れといったような風に聞こえますけれども、ここはそうではないです。どうにも都合のつかない、そういう時にはそれをおいて参って来る、来いといったような無理な事は言わんです、まめな時という事は、いうならば平穏無事な時という事である。ところがみんなの生き方が、そこんところが反対。それこそ何か尻に火がついた様になってきて、さあどうか具合が悪くなってから、何か難しい問題が起こってからヤーヤー言うて参って来る。これではもうその問題が、もう目の前にふさがってしまうですから、信心の話を聞いても、もう良い話が聞こえてこん。ここに心配がいっぱいある時には、どげな良か話聞きよったっちゃ、その話がよく入ってこない。いうなら何でもない時、本気で信心の稽古をさせて頂くという事にならなきゃならない。困った問題が起きるから神様や仏様だというのは、本当の信心の稽古はできない。もうまめな時、いうなら本気で、ただ参ろう拝むのではなくて、本気で信心の稽古をしておく、しかも焦点を間違えずに、その焦点に向かって信心の稽古を一つここへは信心の稽古に来るという事は、そういう焦点をはっきりしてから通うて来なければ、ただお参りした、拝んできたというだけに終わってしまうのです。
 どうぞ。